保育理念

のびる神の子、かがやく神の子

すべての子どもは、「神の子」として、すばらしい神性を与えられ、無限の可能性をもって生まれてくる。

素直で、明るく、純粋な心〔知・情・意〕は、神の与えたもうた神性〔魂・素質〕である。

すべての子どもたちは、
それぞれ他の追従を許さぬ長所を持っている。
”駄目な子”は1人もいない。

しかし、環境により、指導の適不適により、その神性は十分成長したり、しなかったりする。

”三つ子の魂百まで”といわれるように、幼児期は純白な紙に彩色するのに似て、この時期の教育のもつ意義は、人生のどの時期にもまさって重要である。

特に、人間の脳の形成は、六歳までにほぼ完成する。愛の感得、体現の基礎もこの時期までにほぼ固まる。六歳までの成長素因は、将来の人間形成の基礎となる。

幼児期の全人教育すなわち知・体・徳の総合教育と知・情・意の偏頗なき啓発は、ひとり子どものためだけでなく、日本および世界の平和と発展に寄与することである。

子どもは遊びながら学んでゆく。どんなことにも強い好奇心と自立心、向上心をもって取り組む。大人本位の環境と押しつけが、”駄目な子”を育ててゆく。過保護、過干渉、過放任、これらは子どもをダメにする。

愛善教育の精神は、子どもの発達段階に応じ、一人一人の神性の伸びやかな発揮をう心であり、その主眼は素直な知と、豊かな愛の育成にある。

この愛と知の円満な発達を阻害するものは、子どものわがまま、つまりエゴ(利己心)そのものにある。エゴは愛を曇らせ知を鈍らせる。

愛はそのすべてが正しいのではない。愛には善もあり悪もある。利他的”ひとよかれ”の愛は善であり、人に好かれ、家庭は栄え、社会、世界を平和に導く。利己的”われよしの愛は悪であり、自己、家庭、社会、世界を曇らせ混乱させ滅ぼす原因となる。

利他的精神の涵養、つまり愛を与える喜び、育てる喜び、自然の姿を素直に悟り、認識し、さらに工夫を加えてゆく創造豊かな知、こうした広い愛と知を養う。その社会性として、子どもの発育に応じ、礼儀と鍛錬と報恩の実践をとりいれ、この達成を目的とする。

礼儀とは、型にはまった堅苦しいものではなく、伸びやかな明るい心の交流のことであり、協調と敬愛の心である。

鍛錬とは、好きなことのみして、小さな殻に閉じこもることなく、苦しみを克服するたくましさの涵養である。不得手なことも進んでやりとげる意欲と勇気が、たくましさを育てる。やる気まんまんな子ども、内省力と忍耐力のある子ども。

家庭生活とちがい、規律ある集団生活の中で個性を磨く。勝手きままなわがままな心が、やがて集団生活のなかで他人との協調を悟ってゆく。

人は一人で生きることはできない。父母、兄姉、友だち、先生など無数の人々に支えられ、さらに日月、大地、草木、空気、水の恩恵によって生かされている。報恩とは、ものを大切に取り扱い、これらの恩恵を知り、拝み合う心の中で自己を磨き、周辺を明るく耕す精神。

言葉は、人を生かしもし、ころしもする。「よい子」といえば善くなり、「ダメな子」といえばダメになる。言葉は愛であり力である。善言美詞の実践。

善きことは継続することによって達成される。自然に身をつくよう、しみ込むように日々繰り返し実行する。何事も継続が大事。継続は力である。

教育の役割は、押しつけでなく、子どもたち自らの神性を信頼し、働きかけ、その豊かな芽生えを促進することにある。

以上は、子どもに教えるというより、子ども自らの体験から自然に身につくようにしむけることである。園は子どもに内在するいきいきとした神性を引きだす手伝いと環境づくりの場である。

大きく、広く、明るく、たくましくあれ、わが園の子どもたち!

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